頭部に外傷を負った後に認知症と似た症状を見せるケースに関して、記録に残っている最も古い報告は、ドイツの精神科医リヒャルト・フォン・クラフト=エビングによるもので、発表されたのは1868年でした。

意外に昔からこの症状の存在は知られていたようです。




傷痍軍人の後遺症

第一次世界大戦の帰還兵の年齢にそぐわない認知症様症状がしばしば報告されるようになると、頭部への受傷と脳機能低下の関連性はますます強く意識されます。

兵士がパンチドランカーのようになるのは、爆風にさらされるのが原因だそうです。

人が吹き飛ばされるような爆風は、それだけで深刻な後遺症につながることがあるのですね。

ボクサー脳症と呼ばれた時代

1928年、マートランド(米)が、脳震盪を起こすほどでない比較的軽度の衝撃であっても繰り返し受けることで脳に異常を生じさせることがあるとの論文を著し、この頃から「ボクサー脳症」や「パンチドランカー」という言葉が使われるようになります。

パンチドランカーとは、頭にパンチを受けすぎていつでも酔っ払っているような状態にある人という意味合いの言葉で、ボクシング経験者に限定される雰囲気を持っています。

参考:頭部外傷の分子イメージング:慢性外傷性脳症(CTE)と頭部外傷後精神病(PDFTBI)を中心に

アメフトスター選手の相次ぐ悲報

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頭に打撃を受ける競技はボクシングだけではなく、他のスポーツ選手の脳にも同様のことが起こりえると認識されたのは、2000年代に入ってからでした。

2002年、アメリカンフットボールの名センターだったマイク・ウェブスターピッツバーグ・スティーラーズ)が、心臓発作で死亡します。50歳でした。

ウェブスターは、死の数年前から無軌道な浪費や異常な苛立ち、粗暴さが目立つようになり、家族に捨てられてホームレス同然の生活をしていると話題になっていました。

人格の変化や記憶障害など、認知症と似た症状があることも報道されていたことから、ウェブスターの遺体を解剖した医師ベネット・オマルが脳を調べましたが、肉眼では何の異常も見つかりません。

絶望的な痴呆状態にありながら脳は正常に見えることを疑問に思ったオマル医師がさらに詳細に調べたところ、脳のあちこちにタウたんぱく質が凝集していることが分かりました。

オマル医師は、「アメフトでの強いぶつかり合は、認知症のような症状を引き起こすことがある。ウェブスターの奇矯な行動はそのためだったのだ」とする衝撃の論文を発表します。

現在使われている「慢性外傷性脳症chronic traumatic encephalopathy)」という言葉は、この論文発表に際してオマル医師が名付けたものです。

chronic traumatic encephalopathyの頭文字からCTEと呼ばれています。

この論文は、NFLお抱えの専門家によって信頼性に欠けるものとされ、一度は闇に葬られた格好になりますが、それから3年の間に、ウェブスターのチームメイトだった選手が相次いで死亡します。

ストルゼルチャイクは、カーチェイスの末の衝突事故で死亡し、テリー・ロングは、不凍液を飲んで自殺。。。

レスリングも?

スター選手の悲しい最期が立て続けに伝えられ、NFLの安全管理意識に対する不信感が高まる中、今度はプロレスの世界で悲劇が起きます。

現役レスラー、クリス・ベノワが、自宅で妻子を殺害後首を吊って自殺するのです。

解剖されたベノワの脳には慢性外傷性脳症の痕跡があったと発表されました。

ロイターの記事:プロレス=一家心中の米人気レスラー、脳損傷が原因か

ベノワの凶行には、常用していたステロイドの副作用が原因だとする説もあり、どちらが主因だったのか不明です。

両方が原因していたかもしれませんし、他の何かがあったのかもしれません。

ただ、違法薬物使用を示すデータはありませんでした。

ベノワは、新日本プロレスに所属していたこともある選手なので、日本でも応援していた人が大勢いるでしょう。

インテリレスラーの啓蒙活動

首をかしげたくなる元選手の死亡例が集積される間もNFLは、相変わらず「フットボールの危険性は低い」とのスタンスを取り続けます。

NFLお偉方の脳内イメージ↓

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KCコミック あしたのジョー(10)P45 (C)高森朝雄・ちばちてや 2012

硬直していた事態を動かしたのは、医療とは別の世界の人物でした。

元プロレスラー、クリス・ノインスキーです。

ノインスキーは、ハーバード出身のレスラーで、ヒール役として活躍しましたが、試合中に重い脳震盪を起こしたのをきっかけにリングを去っていました。

引退後もその後遺症に悩まされていたノインスキーは、脳震盪に関する情報を探す中で前述のオマル医師の論文を目にします。

フィラデルフィア・イーグルスの選手だったアンドレ・ウォーターズがピストル自殺を図ると、ノインスキーは、ウォーターズとロングのケースに共通点が多いことに気付き、遺族を説得して脳検体をオマルのもとへ送りました。

ウォーターズの脳もまた、CTEに冒されていることが確認されます。

これを医学雑誌に一例報告として投稿しよう…医師ならこう考えるところですが、広く周知させることが肝要と考えるノインスキーは、NYタイムスにコンタクトを取り、本紙一面に掲載させることに成功します。

それでも「フットボールの危険性は高くない」と言い張るNFLでしたが…

フットボールとCTEは無関係と証言したデュアソン元選手の自殺

NFLのOBの間にも、アメフトとCTEに因果関係はないとの主張はありました。

アメリカでもっとも人気のあるスポーツであるフットボールには巨大な利権が絡んでいるはずです。競技そのものの存続を左右しかねないCTE問題は、パンドラの箱のようなものだったでしょう。

上院公聴会に選手組合代表として出席したデイブ・デュアソン(選手時代はシカゴ・ベアーズに在籍)は、「認知症はアメフト経験のない者にも発現する」もので「競技とは無関係だ」と証言します。

しかしそのデュアソンも、その後性格が粗暴になり離婚、うつ、破産…とCTEを疑わざるを得ない経過をたどることになります。

デュアソンが「脳を寄贈するのでCTEの研究に使ってくれ」と遺書を残して自殺したのは、2011年のことでした。

胸を撃ち抜いてのピストル自殺が、脳を調べて欲しいという強い意志を感じさせます。

参考:〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第266回 米スポーツ界を震撼させる変性脳疾患(6)

オバマ「子供がプロフットボーラーになると言ったら…」

2013年末に刊行された雑誌「ニューヨーカー」で、当時の大統領バラク・オバマ

「フットボールの大ファンだが、もしも自分の息子がプロになると言ったら賛成しかねるよ」

と話して話題になりました。

オバマの言葉は、アメフトとCTEの関係やCTEの恐怖がアメリカの常識となっていたことを示しています。

※オバマに息子はいません。たとえばの話です。

参考:President Obama: I wouldn’t let my son play pro football

O.J.シンプソンはパンチドランカーなのか

アメフト出身のスターで引退後に人生が激変した人物というと、O・J・シンプソンを思い浮かべる人が多いと思います。

元妻とその恋人を殺したとされる(刑事裁判では無罪、民事で有罪)OJは、脳に異常があったのでしょうか。

ベネット・オマルは、

経歴を考えれば、CTEを疑って少しもおかしくない。

医師免許を賭けてもいいよ。OJシンプソンはCTEだ。

と言っています。

原文

“I would bet my medical license that he has CTE,” he said. “Given his profile, I think it’s not an irresponsible conclusion to suspect he has CTE.”

O.J. Simpson Worried He Has CTE: ‘I Have Days I Can’t Find Words’

OJ自身も、最近言葉が出てこなかったり人の名前を思い出せなかったりすることがあり、CTEではないかと心配していると語っています。

OJシンプソンは、1947年生まれ、69年から79年をNFLでフットボーラーとして生き、引退は32歳でした。

最初の事件(2人を殺害)は94年なので47歳の時、その後2007年に強盗で逮捕された時60歳だったことになります。

これまで見て来たNFLのOBの発症年齢、自殺や事件を起こした年齢を考えると、殺人事件当時47歳だったシンプソンがCTEの影響下にあったとしても不思議ではありません。

死後に脳の解剖が行われるまでは、CTEの有無は確定できませんが、もしもCTEだったと診断されたら、ちょっとややこしい事態になりそうです。

人が死んでいるのは事実で、どこまでを病気がさせたことと考えるべきなのか。

簡単に「病気だったなら仕方ないね」とは、とても言えないでしょう。

一つ間違えば「CTEの可能性のある者は要警戒人物である」という論調を引き起こしかねない問題でもあり、複雑です。

参考:Wikipediaの「O・J・シンプソン事件」

10億ドルの損害賠償

2016年、NFL幹部が、競技中に負った頭部外傷とCTEとの関連を公式に認めます。

OBらがNFLを相手取って起こしていた訴訟は、NFL側が総額10億ドルを支払うことで一旦の和解。

NFLは、選手の安全のための取り組みを強化すると表明していますが、賠償額やその支払いを含め、フットボールとCTEの問題は、現在も解消されてはいません。

参考:大きな問題としてくすぶり続ける脳しんとう問題

メジャーリーガーの脳に発見されたCTE

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フットボールとCTEの関連性が注目されるのと並行して、また他のスポーツからのCTEの報告が上がります。

プロ野球出身者で最初にCTEを確認されたのは、2012年に自殺した元大リーガー、ライアン・フリールでした。

それまでは、ボクシングやフットボール、アイスホッケーといったコンタクト・スポーツで起きる疾患と思われていたCTEが、野球選手をも襲うと分かったことは、ショッキングな出来事でした。

フリールは、ホームランボールを追ってフェンスに激突するなど派手なプレイで観客を沸かせる外野手だったそうで、現役中に9回から10回の脳震盪を経験したとも言われています。

そのプレイスタイルが災いしたのでしょうか。

参考:Ryan Freel had CTE at the time of his suicide, Boston University study finds

エクストリームスポーツ界にもCTE自殺が

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2016年には、BMXの名手デイブ・ミラが自殺します。

やはりCTEでした。

同じ競技の選手がこの診断にまったく驚いていないことが、BMXの性質を物語っています。

ミラは、エクストリーム・スポーツ(以下Xスポーツ)界で、初めてCTEと診断された。しかし、繰り返される頭部への強打が、大きな危険を孕んでいるのは誰しもわかっていた。今回のミラのケースを知り、驚く関係者はいない。

Xスポーツを揺るがす慢性外傷性脳症とヘルメットの関係

BMXなどのエクストリームスポーツでは、どの選手もヘルメットを着用していますし、ヘルメットの性能は年々向上しています。

しかし脳は、頭蓋骨の中に浮かんだような状態になっています。

外側をどんなに丈夫なものでカバーしても内側で揺れる脳の受けるダメージを抑えられるとは言えません。

研究途上のCTE

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CTEが、多くのスポーツで起こりえることが周知されてから、まだそれほどの時間はたっていません。

今のところ決め手となる安全策はないのが実情でしょう。

現在のスポーツ界は、各競技におけるルールの変更や、受診の義務化などの対策を取りながら、安全な方法を模索しているところです。

また、頑丈であってもCTEの予防を期待できない硬いヘルメットでなく、柔らかいヘルメットも開発されています。

大学発の“柔らかいヘルメット” 脳振とう問題に光明か

慢性外傷性脳症の症状、発現年齢など詳細はこちらに

慢性外傷性脳症(CTE)の本

上述のオマル医師がウェブスターの脳に異常たんぱくを発見してから、NFLが関連性を認めるまでの長い闘いを描いた小説が「コンカッション」です。

ボクサーは登場せず、オマル医師の奮闘に焦点の当たった作品ですが、良作です。

コンカッション=脳震盪です。
表紙がウィル・スミスなのは、映画「コンカッション」でオマル医師役をやったから。

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