あしたのジョーの山谷とは東京のどんな場所だったのか
「あしたのジョー」の舞台は、東京・山谷です。
作品冒頭でこの場所は
吹きすさぶ木枯らしのためにできた
道ばたのほこりっぽい吹きだまりのようなあるいは
川の流れがよどんで
岸のすぼみに群れ集まる色あせた流木やごみくずのようなそんな街があるのをみなさんはご存知だろうか
KCコミック あしたのジョー(1)P7 (C)高森朝雄・ちばてつや 2012
と、紹介されています。
「なにそれどんな場所よ」と思われるかもしれません。
山谷とはどんな立場の場所だったのか、周辺の歴史と周囲の歓楽街の位置関係から考えて見ます。
Contents
山谷周辺の主要ポイントとその位置関係
山谷は、東京のどのあたりかといいますと…
浅草の北にあり、浅草寺の裏門から泪橋までは、歩いて20分あまりの距離です。
日本橋から、少し離れた所に位置する繁華街上野、浅草。
その裏手に大人だけの遊び場吉原があり、明治の時代には隅田川を東に渡った向島がお座敷街・花街として賑わうようになります。
更に北上したところにあるのが山谷です。
山谷はこの立ち位置から、都市の薄暗い面を押し付けられる場所になっていたように思います。
また、山谷の少し北にある千住大橋という橋は、松尾芭蕉「おくのほそ道」の出発点になった所です。
芭蕉が江戸から旅立つそのスタート地点だったということが、この場所を江戸の端であると印象づけます。
その山谷を横切る思川(おもいがわ)の上にあって、奥浅草と呼ばれる地区と刑場とをつなぐ橋が泪橋でした。
※思川は駒洗川とも呼ばれていたようです。
泪橋の先にあったもの
小塚原刑場
江戸時代、思川にかかる泪橋を北に渡った先に小塚原刑場がありました。
「こづかばらけいじょう」ですが、「こづかっぱらけいじょう」と呼ばれることが多かったみたいです。
明治の初期まで使われていたこの小塚原刑場では、はりつけ、火あぶり、獄門が執行され、遺体は申し訳程度に土をかけただけの状態で放置されるので夏にはえらいことに…
泪橋の両側に延びる道は都道464号、吉野通りと言う道です。
泪橋交差点から吉野通りをちょっと北へ行ったところにあったのが小塚原刑場ですが、吉野通りが整備拡張されたのは昭和47年でした。
あしたのジョーの連載開始は昭和43年なので4年後です。
「江戸東京橋ものがたり(酒井茂之著)」という本によると、拡張工事の際、ちょっと掘り起こすと骨がザクザク出てきて、約40の頭蓋骨が出土されたと言います。
40体ってそれ以外の頭蓋骨がどこ行っちゃったのかのほうが気になりますが(笑)
詳しくはこちらで→ Wikipediaの「小塚原刑場」
処刑される罪人がみな泣きながら渡る橋なので「泪橋」と呼ばれるようになったと言われています。
思川は南千住三丁目の東南部にあった堀。
農業用水として使われていた音無川(石神井川用水)の支流で、明治通り北側に沿って流れ、橋場の渡しの北で隅田川に合流していた。 源頼朝がこの川で馬を洗ったことから古くは駒洗川と呼ばれていたという。
文明十八年(1486)京都聖護院門跡の道興准后が思川を訪れ、「うき旅の道になかるる思い川涙の袖や水のみなかみ」(『廻國雑記』)と詠んだ。
思川と小塚原縄手(日光道中)が交差する所に架かっていた橋が涙橋。泪橋とも書く。
橋名の由来は、小塚原の御仕置場に赴く囚人たちが現世を去るに際して涙を流しながら渡ったからとも、囚人の知人が今生の別れを惜しんで袖を濡らしたからだとも伝える。
荒川区教育委員会
都内の処刑場では品川の鈴ヶ森も有名ですが、興味深いことに鈴ヶ森刑場の近くにも「泪橋」という橋があり、やはり同じ由来でつけられた名前だそうです。
(品川の橋は、「浜川橋」と改名されています)
遊女の投げ込み寺
泪橋の北側を少し三ノ輪の方(西の方)へ行くと、吉原の遊女が死んだとき、その遺体を投げ込まれる寺となっていた浄閑寺(じょうかんじ)があります。
今も遊女を慰霊する墓碑が残るこのお寺ですが、特別な取り決めがあって遊女の遺体を受け入れていたわけではなく、吉原から近かったことからそうなってしまったようです。
昭和の頃、東京大空襲で犠牲になった遊女達も、身寄りのあても埋葬の手立てもなく、このお寺に運び込まれたと言います。
東京への空襲は1944年から1945年、「あしたのジョー」の連載がスタートしたのは1968年(発売は1969年1月)です。
おそらく戦後の混沌の中でもしばらくは投げ込みが続いていたでしょうから、ジョーが山谷に着いたのは、まだその頃の記憶が残っている人も大勢いた時代だったはずです。
戦後の復興・経済成長と山谷
空襲で焼き出された人々のテント村
その後の山谷はドヤ街、日雇い労働者の集まる場所になって行きます。
(「ドヤ」は「ヤド(宿)」をひっくり返したスラングです)
江戸時代から木賃宿の多い地域ではありましたが、現在のようなドヤ街となったのにはもうひとつ、大きなきっかけがあります。
東京大空襲で台東区、墨田区のあたりは激しく爆撃され、家を焼き出された人々が、上野駅の地下道にあふれるようになりました。
参考(総務省のページ):台東区における戦災の状況(東京都)
そこで戦後、東京都が山谷付近に東京大空襲被災者のための仮設宿泊施設を設けます。
テント村のようなものだったその仮の寝所の群れに一軒また一軒と簡易宿泊施設が建設され、ドヤ街が誕生したのでした。
やがて高度経済成長を迎えると、労働者の集まる場所として寄せ場、日雇い作業員募集のメッカになり、現在でもその歴史は続いています。
「山谷ブルース」という曲が、1968年に発売されています。
岡林信康という人の歌で、ドヤ暮らしの日雇い労働者の悲哀を歌っています。
どうせ山谷のドヤ住まい
「山谷ブルース」岡林信康
だとか
泣いてみたってなんになる
今じゃ山谷がふるさとよ「山谷ブルース」岡林信康
だとか
高度成長期にあっても山谷の労働者たちの生活がよくなるわけでもなかったようで、なんとも言えない閉塞感が充満している感じです。
ジョーが山谷に見せた夢
そこへ現れたのが矢吹丈です。
人並みはずれた身体能力と強さ。すべてにおいて常識の枠を超えるスケールの大きさ。時に大胆すぎるとさえ言える行動力。
加えて
優れた容姿(きっと関係ある)
クールな名前(絶対関係ある)
ジョーのスター性と可能性。
そりゃこうなりますね。
KCコミック あしたのジョー(6)P138(C)高森朝雄・ちばてつや 2012
以上、山谷とはどんな場所なのか、簡単にお話しました。
現在でも山谷には簡易旅館が立ち並び、労働者風の人がたくさんいますが、スラムと言うほどの雰囲気ではないです。
(日中の話です。夜には行ったことがないので分かりません。)
ただ、玉姫公園はホームレスのためにスペースが割かれ、普通の公園には見えない状態になっていたり、時々昼間に道ばたに座って呑んでるおじさん達がいたり、ただ自動販売機でジュース買ってるだけの作業着姿の男の人が職務質問されていたり(昼間です)と、やっぱり他とはちょっと違うなーと感じることも。
こんな↓注意書き、ほかの土地では見たことないですし…
いえ。ちょっと変わってるだけですよ。
毎朝墓地と墓地の間の道に車停めて新聞読んでる男の人だってひとりしかいないし、いつも怒声を発しながら歩いてるおじさんだって静かにしてる日もあるし、普通ですよ。ええ。
ジョーのいた街 いろは会商店街
山谷には、あしたのジョーで町おこしに取り組む商店街があります。
※2018年、商店街のアーケードが取り払われ、今はジョー像が建っているだけです。
山谷近辺のジョー関連スポット案内はこちら↓に書いておいたので、行ってみる人は参考にしてください。